人間誰しも頭にタトゥーのように刻み込まれた記憶というものがある。
家でボケーっと座っている時、仕事中のふとした瞬間、既視感のある風景を見た瞬間。
開けた瞬間の缶詰のように鮮明に蘇ってくる思い出たち。
匂いまでも感じるような感覚すらある。
筆者は仕事中のふとしたタイミングに、昔何度か韓国ドラマを観た記憶が脳裏に浮かんだ。
小学生の頃だったと思う。
サンテレビかテレビ大阪か忘れたが、ローカル局の夕方の時間帯だっただろうか。
学校から帰ってランドセルを置き、制服を着たまま、まだ知らない大人の恋愛に共感など覚えるはずもなく、ただ無心で観ていた。
タイトルや内容などは全く覚えていない。
だが聞きなれない韓国語のイントネーションと、独特の言い回しなどが、脳みその端くれにこびりついていたのだろう。
「あーなんか観てたなあ」
それだけの感情だったが、20年近く思い出すこともなかった記憶に少し興味が湧いた。
その時ふと「スマホみたいに履歴が残っていればな。」
と思った。
行ったところ、観たもの、食べたもの。
全て履歴一覧で見ることができたら、後になって思い出すことも簡単にできる。
でも同時に「思い出すことがない記憶もまた良いかも」とも思った。
人間誰しも、思い出したくないけどつい頭によぎる記憶。
忘れたくないのに忘れてしまう思い出がある。
でもスマホの履歴削除とは違い、人の忘れた記憶は何年、何十年後にふと鮮明に蘇ることもあるのだ。
思い出すことのない思い出も知らぬ間に自分という人間を構成しているパーツのひとつになっている。
もし人間に履歴があれば、人はただデータを乗せた媒体に過ぎない。
忘れたもの、残っているがまだどこかで眠っている記憶。
それらと共に今日も過ごす。
データを上書きし続けて。